おとなの勉強会

勉強会といっても一人ですけれど、興味のあることを書いていきます。

国会議事録を読む/第001回国会 隠退蔵物資等に関する特別委員会(その4宇都宮事件③)

栃木県警経済防犯課森課長の発言について

 森課長の発言、特に間島が世耕に宛てた信書の暴露は委員会で波紋を生んだ。その対立を整理すると

  • 世耕宛の信書が世耕本人には届かずに何故内務省の役人が手に入れたのか。まるで戦前の特高のような行動が許されるのか。隠退蔵等処理委員会副委員長であった世耕と官僚の対立
  • 信書に述べられている内容、特に世耕非難の内容について、差し出し人である山形県農業会の代理人である間島と世耕の対立
  • 信書に述べられている内容、世耕の代理人として摘発に当った濱田および塚崎弁護士と間島の対立、払下げに関して百万円の手数料の要求を濱田たちが山形県農業会にしたのか?

 

  これらを具体的に述べる前に時系列に出来事を整理してみる。 各人の証言をもとにして作成したもので、「日にちは覚えていないけれど」という証言が多く、前後関係がズレているかもしれない。時代は昭和22年2月頃からこの特別委員会が開かれる寸前の8月までである。

日時

内容

昭和22年2月4日

森(淳)山形県農業会に訪問、隠退蔵物資の払下げについての提案を受ける(佐)

昭和22年2月5日

世耕あてに山形県農業会陳情書を提出(佐)

昭和22年2月14日

隠退蔵物資等緊急措置令を発令

昭和22年2月17日

経済安定本部に隠退蔵物資等処理委員会(委員長石橋湛山)を設立、世耕が副委員長に就任

昭和22年3月17日頃

濱田弁護士、世耕の紹介により山形県農業会関係者と顔合せ(濱)

昭和22年3月19日

世耕指令第一号の交付(栃木県摘発物資を山形県農業会へ払い下げ)

同日

築地の料亭で濱田、塚崎、間島三人で合わせ。弁護士報酬について間島から提案(濱) この時の支払いについてが問題となる。

昭和22年3月22日

佐藤、森、間島三名で世耕を訪問払下指令書を入手(佐)

同年3月26日

栃木の摘発不調であることが判明(間) 濱田ら栃木に出張し、あてにしていた衣服類がまったく出てこないことを知る(濱)

同年3月27日〜4月7日

不調に終った栃木の物資摘発の埋め合わせに世耕らが奔走する

同年4月7日

世耕、総選挙のために選挙区である和歌山に向う。山形県農業会への払下げの断念

同年4月10日

間島、世耕宛て信書の作成(間)

同年4月11日

世耕隠退蔵物資等処理委員会副委員長を辞任

同年月14、15日頃

間島、経済安定本部に行く、新聞発表を要請される(間)

同年4月15、16日頃(20日頃の証言あり)

読売新聞に山形県農業会についての記事が載る。隠退蔵物資処理委員会の井上部員に世耕あての信書を見せる(間)。その信書を内務省の上田事務官が入手(上)

同年4月25日

衆議院選挙(世耕立候補)

同年4月30日

3月19日会食の費用の払いについて、濱田、間島が激論、濱田、間島に小切手を切らせ、料亭の支払いを行なう(濱)

同年5月5,6日頃

全国経済防犯課長会議上にて栃木県関係者に上田事務官が信書を見せる(上)

同年8月8日

山形県農業会で、濱田弁護士らの100万円の請求に関して理事会を開いたかについて間島が問い合わせ、協議の事実を確認(間)


 前回で述べたように、世耕の描いた絵は宇都宮で摘発した物資を、山形県農業会に払下げ、食料危機を打開すべく計画された供米の報奨金としよういう「三角貿易」であった。

 ただこれはグタグタの結果に終った。まず宇都宮からの隠退蔵物資がほとんど出なかったと言うことで「三角貿易」の計画は頓挫してしまう。そして払い下げを当て込んで暗躍していたブローカー連中がゴタゴタを起し始めたということになる。

世耕vs. 官僚

 栃木県警森課長による間島信書の暴露の第一の目的は世耕の信用の失墜であることは明らかである。世耕は昭和22年2月に隠退蔵物資等処理委員会の副委員長に就任しているものの4月にはすでに辞任している。それでもまだ世耕憎しの空気は官僚の世界では蔓延しているのだろう。その一旦を吐露した内務省上田事務官の証言がある。

辻委員

 摘発の本筋そのものに対してあなたは一課員として協力的な態度をおとりになりましたか。その点をお伺いいたします。

上田証人

 その経緯を申し上げますと、(隠退蔵物資等緊急措置令の)閣議決定になりました二月十七日、その後委員会が経済安定本部長官官邸において開かれたのであります。お集まりになった委員は各関係官庁の主務課長、部長さん方であります。その委員会が一回あったきりでその後何ら特別の発展はなかったのであります。あの閣議決定だけでは、警察が今後いかにあの線に沿ってやるかという問題については、どうにもできないのであります。隱退藏物資の処理要領、処理手続というものがきめられなくてはできないということを私は信じておるのであります。でありますから安定本部の方にも御催進をいたしたのであります。けれどもそれが一向進まないために、この案を副委員長の部屋で審議していただきました。副委員長におかれてはこれでよかろうというようなお話もあったのであります。でありますけれどもそれを正式のものとして処理手続を決定的なものとしてわれわれに示していただかなかったのであります。警察といたしましても、積極的な意見をお出しいたしたのにかかわらず、それが出ないために警察は具体的に活動することができなかった。でありますからあの閣議決定の実行については、各府県警察部に対しては何ら通牒はいっていないわけであります。隱退藏物資を徹底的に摘発する。合理的に合法的に間違いの起らないようにしなければならないという気持からそういう案を提出いたしたのであります。それが今日まで一向具体化されずにそのままになっておるのであります。でありますから、第一線において警察との摩擦のったのもやむを得なかったと思います。

 世耕の官僚達の考えが垣間見える発言である。世耕としたところで、官僚の細々とした手続的なところに対して無頓着なところがあるようだ。それを放置して勝手に話を進める官僚たちには我慢できないことなのだ、という官僚の本質を世耕はまったく理解していない。そんな無頓着な世耕の態度に反世耕的な雰囲気が作られていったのではないかと察せられる。そして露骨な追い落し工作が行なわれていく様が語られる。

辻委員

 あなたの方の案と相違しておるから、積極的な協力ができなかった。当時あなたの上司であられました溝淵防犯課長、その摘発の方法におきまして、警察を主とすべきか、あるいは補助とすべきかという点について世耕さんと意見の相違を来して、その席には勝間敏雄というのがおり、同人から直接聞いたのですが、溝淵防犯課長は絶対に協力しないということを言われたと聞いてます。その部下であられたあなたが、この溝淵氏の意向を体してこの問題にあたられたと思います。先日ここにおられる水田委員が内務参与官となりましたとき、内務省にはアンチ世耕の空気がみなぎっていたということを言われたのですが、溝淵防犯課長を主軸とするアンチ世耕の旋風に巻きこまれておられなかったとはどうも想像ができないのであります。その点について、そうした文書(=間島の信書)を重要な書類として、何かの役に立てようとして残しておかれたのではないかということが考えられるのみならず、先日ここにおいでになりました森防犯課長は、不用意にこれを披露したというようなことを言われましたが、聞くところによりますれば同僚の議員に、人を介して、実はかような手紙を持っておるからこれを委員の方から質問してくれるようにと、誘いの水をおかけになつておる事実がある。そういうところから推測して、何かそこに一連の皆さん方が、アンチ世耕の波に乘つて、何らかの計画的な行動をためにせんがためになしつつあられるがごとくわれわれには解釈されるのであります。 

   何故間島の親書が栃木県警の森課長の手に渡ったか? 栃木県の隠退蔵物資の摘発が不発に終わった間島が経済安定本部内にて世耕非難のための記者会見を行った。その時経済安定本部の井上という人間と面会し、信書の下書きを見せた。このコピーが内務省の事務官である上田を経て栃木県警の森課長に渡った。

 本人の了解なしでの信書の内容暴露について、証人台に立った官僚たちは平謝りのポーズを示している。時は昭和22年、新憲法が公布され民主主義的な機運が盛んなときに、戦前の特高を思わせる信書の開封はかなりの拒否反応を示すはずだ。そんなことはおかまいし、言って見れば確信犯、「自爆テロ」のようなものを敢えて演じてみる、それほど世耕憎しだったのである。

 

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