おとなの勉強会

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国会議事録を読む『第1回衆議院議会 隠退蔵物資等に関する特別委員会』(その1)

きっかけ


偶然だが、衆議院参議院の議事録がすべてインターネットに公開されているのを知った。それを読んでみようと思った。

kokkai.ndl.go.jp


憲法が施行されたのは1947年5月3日、5月9日に片山内閣が成立し、第1回特別国会が招集されたのが5月20日だ。せっかくだから第1回の議事録を読んでみようと思った。ただその量は膨大である。決して読みやすい資料とは言えない。議事録のリストを眺めていて興味を引いた委員会の議事録がある。それが「隠退蔵物資等に関する特別委員会」だ。

読み始めてびっくりすることが多かった。僕の印象で言うと終戦後というのは、全てを失ない、貧しい生活の中で新しい日本をスタートさせた、そうだと勝手に思っていた。

ところが今回僕が読んだ「隠退蔵物資等に関する特別委員会」の議事録を読むとそうでもないようなのだ。

この特別委員会のある意味主役である世耕弘一は次のように発言している。

昭和二十年八月十四日閣議で決定いたしました十五日に次官申進、陸海軍の軍需物資を無償保轉せよとの無電發送の事實を私はその後つきとめたのであります。地方機關または民間に無償保轉、いわゆる拂下げです。ところが右無電は八月二十四、五日頃に今度は修正電命された事實があります。私の手もとにある資料によつてそれが明瞭であります。當時の陸軍は、わが海軍は敗れたりといえども陸軍は未だ健在である。物資また十分である。何ゆえに降服するの要ある、と内閣當路に攻めたてたことは、周知の事實であります。そこで政府は軍隊と軍需物資との分離を考え、急遽無償保轉の緊急處置に出たと私はかように考えます。以上の點より見まして、日本の戰爭中止の事柄は、ドイツのごとく弓折れ矢盡きて後戰爭を中止したのでないということがおよそ證明ができると思うのであります。

つまり終戦の一日前に内閣は陸海軍の物資を無償で払い下げを行なった。アメリカ軍に全部接収されてしまうよりはマシと考えたのだろうか。そのドサクサで大量の物資が流れ出し、その混乱から五日後に物資の放出を禁止してみたものの、後の祭り。大変なことになったらしいのだ。

戦後の混乱がある。秩序は乱れ、不正が横行した。ボロ儲けする奴もいる一方で、餓死する子供もいた。

戦後の世界は言うまでもなく、現代日本の原型、スタートラインである。

進歩はしたはずである。比べようなく豊かになったし、目に余るような不正が横行することはなくなったように見える。

もう戦後ではないと言われたのは1956年、戦後レジュームからの脱却と言い始めたのは2014年。終戦直後の世界など遥か昔に思える。

戦後まもなく、混乱期にある時代特有のエネルギーのようなものが議事録の中にも溢れている。今から眺めると笑ってしまうほど荒っぽい世界だ。

例えばものごとにはウラとオモテがある。今時の政治家だったらウラの人たちと一緒に写った写真があるだけでもアウトな世の中だ。それは世の中が正しくなったからか。たぶんそうかも知れない。でもひょっとしたらウラとオモテの繋りがより巧妙にそして狡猾に見えなくしているだけかもしれない。

この時代は違う。平気でテキ屋の親分の名前が出てくる。腐り切った官僚に代わって、彼らを利用して隠退蔵物資を摘発した、なんて話が堂々と語られる。ウラもオモテもまたきちんと分けられていない世界なのだ。だから彼らのつながりが見えるし、理解できる。

委員会の議員の中に徳田球一がいる。言わずと知れた戦後共産党の初代書記長である。彼の演説が記録されている。今の時点で読むと、正義感に溢れた発言は、彼のその後の人生(レッドパージを受けて地下に潜行、その後中国に渡り客死)、あるいは世界での共産主義の行方を重ね合わせるとある種の痛ましさを感じざるを得ない。

彼を嗤う気持ちにはなれない。何十年も経て日本人は穏かになり、秩序を重んじ、常識をわきまえたように思える。だが同時にこの時代にあって今失ってしまったものも多いように思える。彼らが声高に叫んだその思想も今では色褪せてしまったけれども、当時は人々の気持ちを支えたのもまた事実なのだ。

じゃぁ、現代日本でそのような希望の支えとなるようなものがあるのか? そんなことを考えると何か切ない気持ちになるのだ。

背景

繰り返しになるけれども、そもそもの問題の発端は終戦の日の前日の閣議決定にある。

軍其ノ他ノ保有スル軍需用保有物資資材ノ緊急処分ノ件 | 政治・法律・行政 | 国立国会図書館

昭和20年8月14日 閣議決定

陸海軍ハ速カニ国民生活安定ノ為メニ寄与シ民心ヲ把握シ以テ積極的ニ軍民離間ノ間隙ヲ防止スル為メ軍保有資材及物資等ニ付隠密裡ニ緊急処分方措置ス
尚ホ陸海軍以外ノ政府所管物資等ニ付テモ右ニ準ズ
例示
一、軍管理工場及監督工場ノ管理ヲ直チニ解除ス、此ノ場合製品、半製品及原材料ノ保管ハ差当リ生産者ニ任ス
二、軍ノ保管スル兵器以外ノ衣糧品及其ノ材料医薬品及其ノ材料、木材、通信施設及材料、自動車(部品ヲ含ム)、船舶及燃料等ヲ関係庁又ハ公共団体ニ引渡ス
三、軍作業庁ノ民需生産設備タリ得ルモノハ之ヲ適宜運輸省関係ノ工機工場其ノ他民間工場ニ転換ス
四、食糧(砂糖ヲ含ム)ヲ原材料トスル燃料生産ヲ即時停止ス
五、軍需生産ハ之ヲ直チニ停止シ工場所有ノ原材料ヲ以テ民需物資ノ生産ニ当ラシム

 

現場で大混乱が生じたのは想像に難くない。実際のところ閣議決定から出てわずか二週間後にこの閣議を取り消す閣議決定が出される。

軍其ノ他ノ保有スル軍需用保有物資資材ノ緊急処分ノ件 | 政治・法律・行政 | 国立国会図書館

昭和20年8月28日 閣議決定

昭和二十年八月十四日閣議決定軍其ノ他ノ保有スル軍需用保有物資資材ノ緊急処分ノ件ハ之ヲ廃止ス

 

どれだけの物資が流出し、消失したかは僕が知らべた限りではあきらかではない。世耕弘一氏の試算によると当時のお金で約500億円もの食料、鉄鋼、木材、繊維、などの資材が隠退蔵されたとしているが、後述するように世耕氏のキャラクターの問題もあり、定かではない。

板橋事件*1

終戦時はこのように物資はあることはあったのだけれども、おそらくそれを流通させる物流、小売りなどのインフラが壊滅していた。正規の流通ルートというものが存在しないなかで、物資は市中には充分には回らずに、それゆえ物価は高騰した。そうなると物資を隠匿している人達はますます値上がりを狙って物資を隠退蔵するわけで、それらを摘発しようという機運が生まれた。

隠退蔵物資が摘発された例として有名なのは、1946年1月22日に起きた「板橋事件」がある。板橋にあった元陸軍造兵廠に隠退蔵された大豆、木炭、米などの物資を日本共産党を含む近隣住民たちが摘発した事件である。これらが住民の手で行なわれたことが問題となって、警察とも対立したが、結局GHQの介入により国の手によって摘発が行なわれるようになった。*2

世耕事件

世耕弘一は政治家であり、昭和1946年に経済安定本部内に設置された隠退蔵物資等処理委員会の副委員長に就任すると、隠退蔵物資の摘発に乗り出す。彼が発行した約150通の摘発指令書がブローカーらに利用されて詐欺、横領、恐喝事件が起き、大きな社会問題となった*3

これが契機となって第1回衆議院議会において隠退蔵特別委員会が開かれることになる。僕が読もうと思ったはこの委員会の議事録である。

 

 

*1:法政大学大原社研_板橋元造兵廠摘発事件〔日本労働年鑑 戦後特集256〕

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/22/rn1949-256.html

*2:昭和二万日の全記録 第7巻 廃墟からの出発 昭和20年→21年、講談社1989年2月

*3:毎日新聞社刊 昭和史全記録 Chronicle 1926-1989, p397